TOP > 枕崎八景

枕崎八景 その1 滑川の甌穴群(自然遺産)

  金山バス停の右、滑川橋から上流、およそ400mほどが甌穴群を形成しています。川床の岩に弯状の凹凸になっているのが甌穴です。無数にあるので甌穴群と言います。今から凡そ11万年前、錦江湾口にあった阿多カルデラの大噴火で流れ出た阿多火砕流が、さつま半島南部と大隅半島一帯を覆い尽くしました。その溶岩と灰が混ざった軽くて柔らかい溶結凝灰岩が、この川床に流れ込み、永い年月を経て多くの弯状の凹み(甌穴)が出来ました。県下では4番目の規模です。

枕崎八景 その2 鹿籠金山跡(歴史遺産)

     天和三年(1683年) 有川夢宅が発見したこの金鉱山は、宝永年間(1704-11年)には薩摩藩金産出量の36%=58.5kgが、坑夫300余人によって採掘していた。金鉱石の採掘には金鉱石以外に大量の湧水や採掘時に土砂が発生する。これらを外に人力で排出するのは大変苛酷な労働だった江戸時代期間は地元民だけでなく、全国から浪人狩りや、浮浪者などが寄せ集められて、この過酷な労働を担った。
明治13年(1880年)、五代友厚が西洋式精錬法を導入して採掘の効率化が図られ、昭和10年代まで断続的に採掘が続けられていたが、今次対戦のひっ迫により閉坑した。

枕崎八景 その3 鹿籠金山郵便局(歴史遺産)

     当時三等郵便局と呼ばれたこの建屋は昭和10年代(1935年~)の洋式木造建築物です。明治37年(1904年)明治政府は国家財政の乏しい中、郵便局制度を全国に早く普及させるために地域の人に土地建物を無償提供させ、そこに事業を委託する形で設立されたのが三等郵便局。この郵便局は鹿児島県内73番目に枕崎で最初に建てられた(鹿籠郵便局は77番)が、、昭和10年代に、この局舎に建替えられた。正面に立つと厳しい石段、白塗りの鎧外板壁、両引戸の入口扉。窓から中を覗くとアーチ型受付口が薄みどり色のペンキ仕立てられ、お上の威厳と昭和初期のモダニズムの面影を色濃く残す貴重な昭和の本格木造建築遺産です。

枕崎八景 その4 火之神公園(自然遺産)

  この公園は「坊野間県立自然公園」の玄関口に位置する「火之神公園」の雄大な景観は薩摩半島随一の景勝の地です。東に薩摩富士と呼ばれるわれる開聞岳を望み、沖には、右から硫黄島・竹島が、更に運がよければ口之永良部島や屋久島も望めます。西にそびえる立神岩は高さ42m(海上に浮かぶ戦艦大和と同じ高さです)。枕崎のランドマークです。朝は開聞岳から朝日が昇り、夕べに立神岩に陽がむ・・・・まさに一刻、値千金の景観です。市民の憩いの場としても親しまれ、心癒されるビューポイントです。

枕崎八景 その5平和祈念展望台(戦争記憶遺産)

  昭和20年(1945)年4月7日、この展望台の沖200㎞で「戦艦大和」を含む第二艦隊10隻の戦没者を祀る慰霊碑がある広場です。昭和20年4月1日、米軍の沖縄上陸を阻止するため、海上特攻として同月6日、沖縄に向うが、翌日早朝この枕崎沖を通過後、正午過ぎから米軍機386機の激しい攻撃を受け2時間後、6隻が沈没。乗組員3721名が戦死した。生きたくても死ななければならなかった人々を祀っています。(ガイド有=火曜日を除く午前中、雨天休み)

 

枕崎八景 その5  藩政時代の石塀(歴史遺産)

 この石塀の一部は藩政時代の石塀です。間知石、積み石、笠石がそのまま残っている貴重な構造物です。また、積石の両端が斜めに切られている珍しい加工、横や下の石により強く荷重が加わる構造で、他で見られない石組み構造です。この石塀は近年、側溝の改修で一度外されて後、積み戻されたが完全に元通りではないようだ。11万年前、阿多カルデラの大爆発で出来た「凝結凝灰岩」は柔らかく、加工が容易なため、県内多くの施設、塀、垣などに利用されている。

枕崎八景 その6 灰焼き窯(へやっがま)産業遺産

  はシトヘ(白灰)とも呼ばれるこの窯は、海岸にあるサンゴの化石を燃やして作る製造法は僅かな設備投資で出来るので、南九州一帯で盛んに窯が建てられた。枕崎だけでも7箇所に窯が作られた。昭和40年代には大規模工場で大量生産品の普及とともに南薩一帯の窯が消えて行くが、この窯は昭和53年、主の死去まで夫婦で生産していた。

この窯跡は南薩に現存する唯一のものです。
消石灰=その用途は、家屋の外壁用、田畑の土壌消毒や中和剤。更に食用として「こんにゃく・黒砂糖」の凝固剤etc、幅広い用途があった。  
引用文献:(知覧文化第43号)

枕崎八景 その7 白沢天神社

   この社は江戸初期の正保年間(1644~48年)に建立されたと石碑に記されている。学問の神様「菅原道真公」を祀る社は「天神社、菅原神社、天満宮、など多くの呼び名があり、「天神さん」と親しまれ、学問の神様として祀られている。現在も、その数12,000社に及ぶ。江戸初期、永い戦乱が収束し、平和な時代の到来と共に人々は学問の必要を感じて全国津々浦々に寺子屋が作られた。その床の間には学問の神様「菅原道真公」の絵姿や掛け軸などが掛けられた。その後、なお一層の学問の普及と向上を願って、全国各地に総本社(京都北野天満宮)から分祠を授けた天満宮が建てられた。多くの天満宮は境内に道真公が愛した梅の花が植えられ、配流で乗った「牛」の像も安置されているところが多い。

枕崎八景 その8 白沢焼酎工場跡 (産業遺産)

 昭和初期、家弓酒造がここで醸造所を建て焼酎の生産を始めた。良質の地下水で造られた焼酎は”旨い”との評判が立ち、鹿児島市内からも買いに来たという。
昭和26年(1951年)生産は薩摩酒造に引き継がれ、同社白工場として醸造を続けていたが、昭和54年(1999年)近代設の頴娃工場完成に伴い本工場は閉鎖した。敷地に残る仕込甕赤水石造りの建屋、石塀などは永年の風雪を重ねて風格さえ漂わせている。往時の繁栄を偲ばせる貴重な産業遺産建築物です。